塾全協通信2023年8月号

塾全協通信8月号を掲載いたします。ご覧くださいませ。
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(新コーナー)塾人からの発信

《第1回》  中村 勲    地球塾(大阪府泉南郡)

現在、塾生は5人。事情で昨年から新規募集を停止している。いつやめるかわからないけれど、いつもと同じように授業の準備をしている。このコーナーでは塾人が普段考えていること、発見したこと、感動したこと、調べたことなどを発信してはどうだろうか。今回は、私が発信します。
私の塾から数分歩くと海に出る。彼方には淡路島、此方には新日本工機、そして撤退する関電は発電所部分の解体工事が終了している。戦時中、ここには川崎重工業泉州工場があり、潜水艦などをつくっていた。
追いやられた二人の死と復活
1944年、7月15日に旧制中学校の勤労動員が始まった。妻の伯父の「昌ちゃん」は岸和田中学校の5年生。学業優秀、学校を代表して海軍兵学校や陸軍士官学校に体験入学をするほどの存在で、みんなのあこがれでもあった。訓練を要する潜水艦への「鋲打ち」をみごとにこなし、帰宅すると進学のための勉強に打ち込む毎日であった。しかし、真夏の炎天下の作業は過酷を極め、過労から急性肺炎を起こし帰らぬ人となった。息子を失った心労が重なり、母親も1年後に亡くなる。
昌ちゃんの1級下の左京さんも時代に翻弄された一人だ。1945年、4年で繰り上げ卒業し、師範学校の入学式を終えていた。ところが、国の通達で6月まで勤労動員を継続しなければならなくなった。惨劇はこの期間中に起こった。工場の地面には電線が蜘蛛の巣のようにはりめぐらされ、ほとんどの人が感電の憂き目を体験していた。左京さんは不幸にも潜水艦上部で感電し。そのまま落下して亡くなった。背中には感電の跡が残されていたそうだ。
しかし、二人とも勤労動員の犠牲者として扱われなかった。同級生による殉職扱いの要請も学校は「そんなことできるかね」と一蹴されたそうだ。勤労動員がなかったら、3か月の延長の通達がなかったら、二人は死なずにすんだはずだ。学校も川崎重工業も上ばかり気になって、未来のある中学生という個人の立場に立てなかったのだ。二人の死は学校の記録から追いやられることになる。
それが、半世紀を経た1999年、光が当てられることになる。私の娘が岸和田高校に入学し、担任に中学校の自由レポートを見せたところ、事態は大きく動くことになる。娘の祖母は昌ちゃんの妹で、レポートには彼女から聞いた昌ちゃんのことが書かれていた。担任は学校の歴史の編集に関わっていた。その後、話は進展し、学校は二人の死を勤労動員による死と認めた。そして、大阪城公園の教育塔に55年を経て合葬されることになる。それは毎日新聞に大きく掲載された。娘が岸和田高校に入学しなかったら、担任が校史の編纂をしていなかったら、このような結果にならなかっただろう。不思議な縁を感じる。
軍需工場で始まった数学の授業
終戦の2か月前の6月になると資材が届きにくく、仕事の時間も少なくなっていた。当時、朝鮮半島から、200人以上の若者が徴用されていた。朝鮮人の労務者の引率責任者であった金さんが、岸和田中学校の学生に「君たち本当は中学校で勉強していなくてはならないのに、こんなところでもったいないね。進学を考えているのだろう。僕が数学を教えてあげるよ」と声をかけてきた。劇団民藝の田口さんは、当時岸和田中学校に在籍し、父は副工場長だった。金さんは、聞けば京城帝大(現ソウル大)出身とのこと。父も賛成し、父のはからいでひそかに授業が始まり、小さなグループが誕生した。教室は工場の製図室。おおっぴらにできないということで、窓には図面台をたてて外部から見えないようにした。もちろん学校には内緒である。床に広げた紙のまわりに車座になっての学習であった。「幾何学など学校で教わるよりていねいで、とてもわかりやすかった」と田口さんは当時を振り返る。上しか向いていない時代であったが、そんな中、支配被支配を越えて、相手を思いやり尊敬する場面があったことは奇跡であり、思わず人間賛歌を唱えたくなる。地元岬町でもこの事実を知っている人はほとんどいない。これからも語り続けていきたい歴史である。

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