塾全協東通信「2022年6月号」を追加いたしました

塾全協東通信のページに

2022年6月号を掲載いたしました。御覧くださいませ。

–以下一部抜粋–

塾全協新聞とブロック通信に関するお知らせ

去る2022年5月29日に開催されましたNPO塾全協令和4年度第一回全国常任理事会とその後の全国総会で以下のことが決定されましたのでお伝えいたします。
① 毎年4月発行の「塾全協新聞」は、従来東日本ブロックが発行し、主として東日本ブロックのイベント報告や会員の投稿を載せるものでありましたが、今後は「全国版」となります。
② 東西別々にホームページ上で発行していた「ブロック通信」は東西統一の「NPO塾全協通信」として、今年度7月号より原則毎月発行します。
以上、両方とも取りまとめは全国事務局長中村基和がいたします。

西日本ブロック研修大会実行委員会と会員総会

日時:2022年(令和3年)5月22日(日)午後3:00~4:50
○全国研修大会実行委員会(拡大理事会)  午後3:00~3:50
○西日本ブロック総会            4:00~4:50
○懇親会                  5:00~
場所:共学館義塾(大阪府吹田市 西日本ブロック事務局長村田先生の塾)
議題:① 令和3年度事業報告承認の件
② 令和3年度決算報告承認の件
③ 令和4年度活動方針について
④ 令和4年度予算案について
⑤ 全国研修大会について
レポーター:中村基和

コロナ禍以降初めての対面式会議で、東日本ブロックからも3人出席しました。西日本ブロックは強化研修会も関西教材フェアーも催されることがなかったので、議題は主として全国研修大会のことになりました。実行委員長の杉山先生は都合でオンラインで参加となりましたが、対面式+オンラインという会議はNPO塾全協としては初めてのことで、以前には考えられないことでした。毎月第2水曜日の東日本ブロックの理事会はオンラインで行われていますが、岡山県の山下会長も毎回参加してくださっています。ZOOMのおかげで交通時間も交通費もかかりません。コロナがもたらした数少ないプラス面のひとつとも言えましょう。
今年度の全国研修大会は、西日本ブロック担当で、10月30日(日)に大和屋本店(大阪市中央区)で「―新しい英語教育の時代へー日本の英語教育が変わる」のテーマで開催されます。講師は、中嶋洋一氏(関西外語大学教授 2015年11月1日の神戸の研修大会の講師)と、田尻悟郎氏(関西大学教授)のお二人です。今回はコロナ対策のため学校や他団体への呼びかけはしません。

総会終了後は会場の共学館義塾の真向かいにある店で懇親会。久しぶりに明石焼きをはじめ、関東では中々お目にかからない料理をいただきました。2年半ぶりにPCの画面上ではなく、すぐそばで対話が出来ることに皆さん喜んでおられました。大袈裟に言えばお互い「生きてたんだね!」でした。同業者の集まりなので、この2年間の塾運営の苦労や失敗談が飛び交い、塾全協のこれからの方向性など理事会の延長のようにもなっていました。酒が入っているから結構本音トークにもなりました。一次会、二次会そして帰りの道でも「ラーメン食べたい」と言い続けていた某先生、ラーメンは食べられましたか?

 

~小田原城総構~

NPO塾全協顧問 沼田広慶
天正17年(1589)11月24日、秀吉は北条氏の討伐を布告した。小田原攻めである。翌年3月1日には、秀吉は自ら出陣、東征の途に就いた。本隊が進む東海道は先鋒として徳川家康が2万、織田信雄が1万2千を率い、東山道は上杉景勝・前田利家らが、海上には九鬼嘉隆・長宗我部元親らの水軍を配した。総勢21万の大軍である。
まだ夏の暑さが残る9月下旬の日曜日、8:05東京駅発の東海道本線に乗車して9:22に小田原駅に着いた私は、西口の北條早雲公像に向かった。そこには馬上で三軍を叱咤するような早雲公がいた。北条五代の礎を築いた梟雄である。
しかし、4代氏政とその子氏直は天正18年、存亡の危機を迎えていた。3月、箱根の山中城があっけなく落城、4月には松井田城、西牧城、厩橋城、箕輪城、石倉城などが相次いで陥落、さらに江戸城から上総、下総の諸城も攻略され、5月には岩付城が、6月には鉢形城・八王子城・韮山城が落城した。こうして上野・武蔵・相模・両総方面はほぼ秀吉側によって制圧された。この間、秀吉は小田原城を見下ろす石垣山に「一夜城」を築き、持久戦に備えた。もはや、北条方5万6千余の軍には天下の堅城と言われた小田原城の堅塁しか残っていなかったのである。
戦国時代最大と言われる規模を誇った小田原城。その周りを堀と土塁で囲む、いわゆる総構(そうがまえ)の総延長は約9kmに及んでいた。明応4年(1495)、大森氏から早雲が奪ったこの城は、南は相模湾に面し、西を流れる早川と東を流れる酒匂川に挟まれた要害の地であった。さらに北西から南西にかけては天下の険と言われた箱根山から続く丘陵地帯が、北東には湿地帯が広がっていた。北条氏はこの地に安住していたのである。
駅を後にした私は南に向かい、小田原城の外側を右回りに進んで三の丸小を左に見ながら今度は北上し、線路を乗り越えて、緩い坂道を北西方向へひたすら登って行った。今でも残る総構の跡を見るためである。
城山4丁目に入ってからしばらく行くと右側に「三の丸外郭新堀土塁」があった。説明板には「総構ができるまでは小田原城の外郭線だったが総構が構築されたことで内側の堀となった」とある。説明板の先には確かに大きな堀と土塁があった。野球場ができるくらいの広さがある。西南方向には「一夜城」の石垣山が見えた。
さらに道を上がっていくと、「小峰御鐘ノ台大堀切」に着いた。汗をぬぐい、ペットボトルの水を飲む。暑い。説明板によると、「総構以前の外郭に相当し、幅が約25~30m、深さは約12~15m、勾配は50~60度とあり、堀には堀障子や土橋状の掘り残し部分などが確認された」とある。ここには箱根山に連なる尾根を遮断するように大きな堀と土塁が3本並列している構築されている。現在は幅4m、高さは2~3m程だが、それでも100m以上にわたって残っている堀の中を歩いていると、戦国時代にタイムスリップしたような感じに襲われる。これらの堀の一部は現在、生活道路として使用されているようで、バイクや小型トラックが通り過ぎて行った。
そこから道標に従ってしばらく行くと、「総構水之尾口櫓台」と書かれた案内板があった。やっと「総構」の文字が出てきた。説明によると「この場所は総構の最西端に位置し、標高約120mの最高地点であり、箱根山からの尾根伝いの攻撃を防御する位置に当たる。この辺りの総構には櫓が至るところに立ち並んでいた」とある。確かに見晴らしはいい。小田原城下は勿論、丹沢山系から相模湾まで見渡すことができる絶景である。草の上に腰を下ろし、弁当を広げることにした。日差しは相変わらず強いが、風が爽やかで気持ちが良い。にらみ合う両軍の様子を想像してみたが、空間が大き過ぎて今一つピンと来ない。
小田原城に戻る途中で「八幡山古郭東曲輪」に立ち寄る。階段を登るのに一苦労したが、正面に小田原城の天守閣を見て満足した。目線と同じ高さに大きく見えるのだ。
線路を越えてからは報徳二宮神社で西に折れて「総構早川口遺構」を目指す。住宅地に入り込んでいくと突然目の前が開けて高さが1~2m位の土塁が数10mに渡って現れた。説明板によると「二重外張(ふたえとばり)と呼ばれる、土塁と堀を二重にして防御を固めた場所で、総構の虎口であった」という。小さな子供がボールを蹴って遊んでいた。
有名な「小田原評定」を経て天正18年(1590)7月5日、北条氏直が投降し、小田原城は開城された。巨大な総構を挟んでの、戦国時代最大の攻城戦とも言うべき大激戦はなかったのである。残念というべきか。
以上

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